※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
発作、また発作
梨花が夕食の支度をしていると、リビングで遊んでいたはずの息子の悠人が、足元へすがるように寄ってきた。
「ママ、くるしいよぉ…」
ゼーゼー、ヒューヒューと強い喘鳴が聞こえる。唇の色が悪い。梨花は慌てて悠人の口に吸入薬をあてがい、いつものように吸入させた。
5歳になる悠人は喘息持ちで、酷い発作を起こすこともある。吸入させながら、悠人の胸を見て陥没呼吸がないことを確認した梨花は、少しだけ安堵の息をついた。
5歳になる悠人は喘息持ちで、酷い発作を起こすこともある。吸入させながら、悠人の胸を見て陥没呼吸がないことを確認した梨花は、少しだけ安堵の息をついた。
シングルマザーの佐々木梨花は、朝日記念病院の小児科外来で看護師をしている。元は小児科病棟で3交代勤務もしていたが、悠人が生まれてから日勤のみの外来に異動になった。3年前に離婚して、病院の敷地内にあるこの看護師寮に悠人と共に移り住んだ。寮に住めるのは、単身女性かシングルマザーのみ。親や友人を呼べないのは難点だが、家賃は光熱費込みで35,000円と破格の安さだ。女性限定のため、セキュリティがしっかりしているのがいい。夜中でも救急車のサイレンが聞こえてくるのは、立地的に仕方のないことだと諦めていた。
悠人のアレルゲンはカビだ。悠人が小児喘息を発症してから、梨花は毎日の掃除を欠かしたことがない。寮は古い建物なので、暖房を入れると外気との気温差で結露が発生する。冬でも室温を上げすぎず、換気扇を回すようにして、窓を食器用洗剤で拭き上げる。食器用の洗剤には水をはじく成分が含まれているため、結露ができるのを防ぐことができる。結露してしまったらすぐに雑巾でふき取るし、お風呂も毎日ピカピカにしている。それでも起きる発作。他のアレルギーもあるのでは…と梨花は不安に思っている。
「ママ、くるしいの、いつなおるの?」
小児喘息のピークは4~5歳頃と言われており、10歳までには自然に治ることが多いと聞くが、定かではない。だから梨花は不確かな約束はしたくなかった。
「悠人、すぐには治らないかもしれない。でも、ママも一緒にがんばるからね」
梨花はしっかりと悠人を抱きしめた。
ようやく発作が治まった悠人だが、夕食もほとんどとらずに寝てしまった。食器を洗い終えた梨花が寝室に行くと、悠人がぐったりと横たわっていた。喘鳴は聞こえない。唇のチアノーゼが酷く、意識が混濁しているのか、名前を呼んでもぼうっとしたままだ。梨花は迷わず救急車を呼んだ。
母との電話
悠人が入院して3日。ステロイドの点滴治療も内服に切り替わり、1日6回の吸入治療のみになった。酸素のカニューラも取れた。だがまだ顔色は悪く、呼吸をする時はゼーゼーと音がしたし、夜もよく眠れていないようだった。こんな時、梨花はいつも代わってやりたいと思う。小さな体で病気と闘っている悠人を見ていると、丈夫な体に産めなくて申し訳ない気分になるのだ。
『どう、悠人の様子は?』
母の幸子に電話で聞かれ、梨花はくしゃりと顔をゆがめた。
「あの子、保育園にいる時間よりも入院してる時間のほうが長いのに、何も言わないの。私が仕事に行く時も全然泣かないのよ。泣いちゃいけないって思ってるのかしら…」
言葉を詰まらせる梨花に、幸子は優しく諭した。
『子どもは親の背中を見て育つというじゃない。あんたも子どもの頃から負けん気が強かったわよ。それで、あんたは眠れてるの? ちゃんと食べてる?』
「眠れないけど、食べてるわよ。私が倒れちゃ、誰が悠人を育てるのよ」
『眠れなくても倒れるでしょ。完全看護なんだから、病棟の方に任せて休みなさいよ。ね、一緒に住む気はないの? お母さんはあんたが心配よ』
いくつになっても親になっても、母にとって自分は子どもなんだな、と梨花は少しだけ笑顔になった。
「お母さんの気持ちはうれしいけど……お父さん、まだ怒ってるでしょ? 私が勝手に結婚して離婚したこと」
父の富雄は、梨花の元夫の笹山孝人を嫌っていた。頑固で昔気質な富雄と、軽薄なところがあり酒癖も悪い孝人。相容れないのは当然だった。孝人は梨花と同じ大学出身の、臨床工学技士だ。同じ朝日記念病院への就職を希望していたが、面接で落とされ、透析クリニックで働いている。自分よりも稼ぎのいい梨花を疎ましく思っていたらしく、酒癖はどんどん悪くなり、悠人が生まれて2年で別れた。孝人が悠人の養育費を払う気がないことも、富雄の怒りをさらに煽った。
恋は盲目とはよく言ったものだ。孝人の本性を知ったのは、結婚して一緒に住み始めてからだった。父の怒りを買うのは当然だが、ここまで我を通してきて、今さら父に頭を下げるのも嫌だった。
『負けず嫌いは相変わらずね。誰に似たんだか』
梨花は小さな頃から、父と衝突してばかりいた。看護師になるのもかなり反対された。悠人のことを思うと、小児科の看護師になったことに後悔はない。だが孝人と結婚したことは人生の汚点だと思っている。
(今さら謝っても許してくれるわけがないわよ……あのお父さんが)
それに、実家は勤め先から遠くて通えない。大きな小児科が近くにないのも、悠人の喘息発作のことを思うと不安だ。
(実家には帰れないわ)
梨花は唇を噛んだ。
上司との会話
悠人が退院して2週間ほどたったある日、梨花は小児科病棟の看護師長である川口奈津子の家を訪れていた。梨花が10年間働いた小児科病棟で一番世話になった奈津子は、一戸建てを建てて夫と2人の子どもと一緒に住んでいる。子どもは高校生が2人。下の子は幼い頃小児喘息を患っていたらしいが、今では陸上部のエースだ。悠人も将来、そんなふうに丈夫に育ってくれたらと思う。喘息持ちの息子という繋がりもあって、奈津子は梨花と悠人を気にかけてくれていた。家に招かれるのも初めてではない。
「悠人くん、8日間で退院できて良かったわね。前回は12日間だったかしら」
梨花に紅茶を淹れてきた奈津子が、クッキーを差し出しながら聞く。
「よく覚えてるわね、師長さん。悠人、保育園に半分も通えてないのよね」
「病棟の保育士には、なついてるようだったけど」
「それが、保育園には馴染めていないのよ…」
梨花はクッキーをつまみ、大きな溜め息をついた。
「4月から小学校に上がるのに、不安しかないわ」
「うちの子はその頃から発作を起こさなくなったわよ。家を買ったのも大きいと思うけど」
奈津子の言葉に、梨花は身を乗り出した。
「家を買うと発作が起きなくなるの?」
「偶然かもしれないけどね、うちの窓、複層ガラスなのよ。結露しにくいからカビも生えにくいの。注文住宅を建ててもらった当時は、画期的な窓ガラスだったんだけど。今は住宅の省エネ化が進んでるから、新築なら結露しにくい窓になってるはずよ」
悠人の喘息発作が治まるかもしれない。そう思うと、梨花は今日初めて聞いた『複層ガラス』について詳しく知りたくなった。
悠人を保育園に迎えに行くと、今日描いた絵を見せてくれた。看護師寮のリビングで、梨花が窓を拭いている絵だ。窓は真っ黒に塗りつぶされていた。夜だから窓の外が暗いのか、窓に生えた真っ黒なカビを怖がっているのか、梨花にはわからなかった。
悠人が寝静まってから、梨花はスマートフォンで複層ガラスについて調べてみた。
複層ガラスとは、優れた断熱性を持ち、結露の防止に繋がるとのことだった。奈津子の言うとおりだ。さらに最近の新築住宅についても調べると、断熱性能等級4以上、一次エネルギー消費量等級4以上が最低水準で、アレルギー疾患やヒートショックも起きにくいらしい。電気代も節約できて、いいことずくめのように思えた。
(でもきっと、高いんでしょ? シングルマザーの私に買えるかしら……)
それでも梨花の中に、家を買うという目標ができたことは確かだった。
検索履歴
それから梨花のスマートフォンの検索履歴は、劇的に変わった。今まで「カビ 対策」や「カビ 予防」といったワードが上位検索履歴にあったのが、「シングルマザー 住宅ローン」「住宅ローン シミュレーション」「住宅ローン控除 対象」が上位に入ってきた。家探しのためのアプリも入れた。住みたい場所は職場から近く、小中学校やスーパーが徒歩圏内の場所。中古住宅はカビが怖くて、もっぱら新築を探した。
検索結果によると、女性であることや家庭環境などが審査の妨げになることはないらしい。定職について勤続年数15年、健康で年収が400万円の梨花なら、住宅ローンを借りられそうだった。貯金も1,000万円ほどあるが、今後かかる悠人の学費や入院費のことを考えると、あまり切り崩したくはない。シミュレーションサイトで年収から借りられる額を計算してみると、借入限度額は変動金利で2,900万円前後だった。フラット35だと3,500万円ほどだ。目当ての家は軒並み3,000万円台以上。フラット35ならギリギリ買えそうだが、わざわざ金利の高いローンを選ぶ意味がわからなかった。変動金利を選ぶことにして、もう少し待って頭金を貯めるか、それとも夜勤をしてみようか。
家を買おうと思っていることを母の幸子に電話で相談すると、返済していけるかどうか心配された。
『万が一体を壊したら、返済はどうするの?』
「団信に入ろうと思ってるの。そうすれば私に何かあった時も、ローンの返済は安心でしょ?」
『言い出したら聞かないところも、昔と変わらないわね。もう決めてるんでしょ』
「えへ、バレたか」
『でも、本当に大丈夫? 悠人の学費や入院費を考えると、貯金は使えないでしょ。ねぇ、お母さんの貯金、少しだけど頭金にしなさいよ。500万円か1,000万円まで、贈与税が非課税になるはずよ』
幸子は急に声をひそめて言った。玄関の閉まる音がする。父が帰ってきたのだろう。
母はいつだって梨花の味方だった。だが、父に内緒で老後の資金をもらうわけにはいかない。梨花と険悪な父は、首を縦には振らないだろう。
「ありがとう、お母さん。いざとなったらお願いするかもしれないわ」
『無理しないのよ?』
「わかってる、ありがとう」
梨花はもう一度お礼を言って、電話を切った。
アプリには、お気に入りのチェックをつけた物件が3件。いずれも新築で、職場からも近い。悠人と二人暮らしなら2LDKあれば充分だろうが、小さな家でいいのに2SLDK以上の物件しかない。梨花は価格の低い2SLDKを狙っていた。Sは納戸(サービスルーム)といって、建築基準法で採光や通風などの点で居室と認められないものらしい。
(とりあえず、この物件を扱ってる不動産屋さんに行ってみよう)
梨花は悠人と自分の未来のために、本気で家を買おうとしていた。
予感
梨花は週末、悠人を連れて、希望の物件を扱っている不動産会社を訪れた。担当についたのは30代半ばほどの男性で、朝日昇太と名乗った。
「2LDKから2SLDKでいいので、3,000万円程度の新築が欲しいんです」
「お子さんと2人暮らしですか。中古マンションでは駄目でしょうか?」
「この子は喘息持ちなので、中古はカビが怖くて。アレルギーなんです」
「わかりました。お探ししましょう」
そうして、その日のうちにお気に入り登録した2件を見学することができた。
不動産会社から帰ると、梨花はさっそく母の幸子に電話で報告した。
「そんなわけで家を見てきたんだけど、やっぱり2人暮らしには広すぎると思ったのよね」
『あら、あんた家を買う気なの?』
「そうよ。先週そう言ったでしょう? 忘れちゃったの?」
『聞いてないわよ。返済していけるの?』
同じことを聞かれた梨花は、戸惑いながら先週と同じやりとりを繰り返した。
(もうお母さんも65歳だし、忘れっぽくなってきたのかしら?)
嫌な予感が染みのように広がっていくのを感じた。
翌週、梨花は久しぶりに幸子と駅ビルで待ち合わせて、外食をした。直接会って話すのは2ヶ月ぶりだろうか。父の富雄はパソコン教室で指導員をしていて、今日も仕事らしい。
「2人暮らしなんだからLDKは12帖くらいでいいのに、本当に無駄に広いのよ。小さくて安い家、ないかしら」
「きっと、家を買うのは両親と子どもの3~4人家族が多いのよ。需要がないわけじゃないのにね……あ、私ったら、ガスの元栓を閉めてきたかしら?」
「え? お母さん、最近忘れっぽくない? 火は消した?」
「消したはずよ……多分」
梨花は幸子の腕をつかみ、慌ただしく店を出てバスに飛び乗った。
実家に着くと、玄関の鍵まで開けっ放しだった。ガスの元栓も開いていたが、火はついていない。梨花はホッとしてその場にへたり込んでしまった。
こんな形で実家に戻ってくるとは思わなかった。母の行動は『忘れっぽい』の範疇を超えている。梨花の頭の中を『認知症』の3文字がぐるぐると渦巻いた。
「ねぇ、鍵をかけ忘れるなんて、今までにもあったの?」
「しょっちゅうよ。でも、田舎だから泥棒なんて入らないわよ」
「そういう問題じゃなくて。すぐに病院で診てもらって!」
そう言っても、幸子は不思議そうな顔をするだけだった。
腹をくくる
その晩、梨花は隣で寝ている悠人の顔を見つめながら、考え込んでいた。母の幸子を病院に連れていくためには、父と話さなければ。結婚を反対されて家を出てから7年、父の富雄とは全く顔を合わせていないし、電話もしていなかった。しかし今は意地を張っている場合ではない。幸子が認知症かもしれないのだから。梨花は腹をくくった。
(でも、あのお父さんが私と話してくれるかしら?)
離れて暮らしていても、結局は父と娘。梨花は容易に予想ができた。富雄はまだ自分のことを許していないと。
それから2週間は、家探しどころではなかった。実家に電話しても幸子しか出ないし、父に代わってくれと言っても切られてしまう。何度か実家を訪れてみたが、会ってはもらえなかった。
『お父さんは、あんたと話したくないって言ってるわ』
『俺は出ないぞ!』
申し訳なさそうな母の声と、遠くから怒鳴る父の声。
そんな日が続き、頭にきた梨花は、自分が母を病院に連れて行こうと決意した。
「話したことを忘れたり、ガスの栓を閉め忘れたり、家の鍵をかけ忘れたりするんです」
職場である朝日記念病院の脳神経内科で幸子を診てもらうと、65歳という年齢から認知症が疑われ、検査が行われた。血液検査、脳画像診断、脳波、簡単な認知機能のテスト。結果、初期のアルツハイマー型認知症だと診断された。
「今は症状の進行を遅らせる薬もありますよ。お父さんにきちんと話して、薬物療法を始めましょう」
今度こそ父と和解して、家族がひとつにならなければ。
梨花は母と共に実家へ帰り、夕食を作りながら富雄の帰りを待った。
「こんな時間に何してるんだ。子どもは一緒じゃないのか? それでも母親か」
仕事から帰った父は、梨花が悠人を放ってきたことを怒っているようだった。悠人は、信頼する看護師長の川口奈津子に預けてある。そう言うと、富雄は不満そうに鼻を鳴らして自室にこもろうとした。
「待って! お父さん、今日病院に行ってきたの。お母さん、アルツハイマーだって…」
「…え……?」
富雄は呆然と立ち尽くし、幸子を見つめた。
「まだ初期らしいんだけど。家の鍵をかけ忘れて出かけてるの、知ってた?」
「……梨花、おまえが最近俺と話そうとしてたのは、母さんのことがあったからなんだな」
「そうよ」
梨花が素直に答えると、途端に富雄は不機嫌そうな表情になった。
「俺に謝ろうとしてたんじゃなかったのか。……もういい、母さんの面倒は俺がみる。出ていけ」
「待ってよ、お父さん……!」
実家を追い出された梨花は、閉ざされた玄関の前で大きな溜め息をついた。
笑顔
父との関係に大きなしこりを残したまま、梨花は新居探しを再開した。
「この物件はどうでしょう? 3LDKで2人暮らしには少々広いですが、ご両親やご友人を招きやすい立地ですし、小・中学校まで徒歩圏内ですよ」
担当の朝日昇太が勧めた物件は『ソレイユ ルヴァォン』という分譲住宅の中の1件で、3,280万円だった。立地は申し分ないし、住宅ローン控除が手厚い長期優良住宅だ。だが、やはり広すぎるし、3,000万円は超えてしまう。駅までは徒歩13分というから、立地と住宅性能にしては安いのだろう。
「……父とは仲が悪いんです。でも、一応見に行ってみようかしら。この地図だと、職場と小学校の間みたいだし、スーパーも近くにあって立地はいいのよね」
「ぼく、びょういんがちかくにないと、こわい」
悠人が初めて新居について希望を言ったのがうれしかったのか、昇太は悠人の頭を大きな手で撫でて、言った。
「病院は歩いて10分くらいかな。小学校も歩いて8分ほどだから、多少の寝坊もOKですよ」
そして、梨花たちはその物件を見に行くことになった。
送迎車に乗り込み、現地へ向かう途中、元夫の孝人が勤めていた透析クリニックの前を通り過ぎた。まだ同じ病院に勤めているだろうか。梨花は何となく嫌な気分になった。
目当ての家は10棟の分譲住宅地の端にあった。半分ほどが売れているのか、駐車場に車が止まっていたり洗濯物が干されていたりした。子ども用の小さな自転車が玄関先に置かれている家もあった。同時期の入居なら、小学校に上がる前の子どものいる家庭が多いのだろうか。入院ばかりで保育園に慣れていない悠人にも、友達ができるかもしれない。
「この分譲住宅地の中で他よりお安くなっているのは、車が1台しか駐車できないのと、ゴミ置き場があるからなんです。でも、確か車は運転なさらないんですよね」
「ええ。来客用に1台分あれば充分だわ。陽当たりが良くて明るいし、いい家ね。お値段がもう少し安ければ即決なんだけど」
その言葉を聞いた悠人は、梨花の服を引っ張って言った。
「ママ、ムリしないでよ?」
「大丈夫よ、悠人。家を買うのはママのためでもあるのよ」
心配そうな悠人だったが、2階の3部屋のうちの一室を見ると、目を輝かせた。一番狭い部屋がロフト付きだったのだ。子どもにとっては秘密基地みたいなものだろう。
「ぼく、ここがいい!」
現金なものだ。梨花は久しぶりに声をあげて笑った。
再会
送迎車で不動産会社まで戻った梨花は、悠人が気に入った物件を検討してみようと、間取り図や家の設備に関する書類をもらって帰途についた。病院の敷地内の看護師寮まで、バスで15分。駅からバスに乗ろうと、悠人を連れて待っていた時だった。
「久しぶり、梨花。おまえ、さっき不動産会社から出てこなかったか?」
声をかけてきたのは、離婚した夫の孝人だった。酒癖の悪さを理由に別れてから、同じ街に住んでいるのにまったく会うことがなく、安心していたのに。酔って暴れた過去があるせいか、悠人はおびえて梨花の後ろに隠れた。
「久しぶりね。私たち、家を探してるのよ」
悠人を後ろにかばいながら、梨花はできるだけ友好的な笑みを浮かべて孝人の問いに答えた。梨花の言葉に、孝人は驚いたように目を見開いた。
「まさか、家を買うのか。買えるのか?」
「ギリギリね」
そう答えると、孝人は蛇のような目つきで笑った。
すぐにバスが来て、助かったと思ったのも束の間のことだった。
数日後。梨花がいつも通り小児科外来で仕事をしていると、赤ん坊を抱いた茶髪の女性が声をかけてきた。
「2時間も待ってるんですけど、この子はいつ診てもらえるんですか?」
「何番でお待ちですか?」
「108番です」
女の答えに、梨花は首をかしげた。この病院は4桁の番号札しか発行していない。0108番の間違いだろうか?
「番号札を拝見してもよろしいですか?」
その時、突然女が自分の赤ん坊の手をひねり上げた。火がついたように泣き出した赤ん坊をあやしながら、女は梨花を罵った。
「子どもに何するのよ! この看護師が私の子を虐待したわ!」
「……は?」
「慰謝料を請求します!」
自分で虐待して梨花に罪を着せようとした女が何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
小児科外来が大騒ぎになって、病棟から看護師長の奈津子が駆けつけてきた。梨花は院長に呼び出され、事の次第を聞かれた。ありのままを答えたが、クレーマーの策略に巻き込まれたとしか思えない悪夢に、梨花は自分がどうなってしまうのか不安で倒れそうだと思った。あの茶髪の女は何者で、なぜ梨花にあんなことをしたのか。
「ペイハラって増えてるらしいわよ、気をつけてね」
奈津子にはそう言われたが、今まで遭ったことがなかったし、明らかに梨花を狙って来たようだった。あの場は奈津子が丸くおさめてくれたとのことだが、また来るかもしれないと思うとゾッとした。
決意
保育園に悠人を迎えに行くと、先週末に見学した家をクレヨンで描いていた。『ぼくとママのおうち』、お絵かき帳の前のページには『ひみつきち』というタイトルで、ロフトから天窓を眺めている悠人の絵。あの家が気に入ったようだ。貯金を切り崩すかフラット35で借りてもいいから、あの家を買おうと決意を固めた梨花だった。
ところが、あの茶髪の女が連日小児科外来に来るようになり、梨花は家を買うどころではなくなった。家を買うために住宅ローンの事前審査や本審査について調べたり、書類の準備をしたり、やらなければならないことは山ほどあったが、集中できなくなった。奈津子によると、茶髪の女は西村琴美というらしい。琴美は小児科外来の待合室で、梨花に関する根も葉もない噂を流しているとのことだった。何度か院長に呼び出されて、恨みを買った覚えがないか聞かれたが、梨花には全く覚えがなかった。
(もう辞めたいけど、家を買うんだから辞められないわ)
職を失ったら家を買うことも夢で終わってしまうが、梨花は職場に行くのが嫌になってきていた。
その日も琴美のことで神経をすり減らして、悠人を迎えに行く前に夕食の買い物をしながら重い溜め息をついていた。聞きたくもない声が耳に飛び込んできたのは、そんな時だった。
「あの女、もう少しで辞めると思うわ。そうしたら結婚してくれるんでしょ?」
「ああ。一緒に暮らそう、琴美。あいつ、自分だけ幸せになろうなんて虫が良すぎるんだよ」
琴美と一緒にいたのは、元夫の孝人だった。手から買い物かごがすべり落ちる。気づいたら足音も荒く歩み寄り、孝人の頬を思いっきりひっぱたいていた。
「信じられない。クズだと思ってたけど、これほどとはね! 別れて正解だったわ!」
店内がざわついたが、梨花は素知らぬ顔で買い物を済ませて家路を急いだ。
「……というわけで、別れた夫の嫌がらせだったみたいなの」
その夜、梨花は奈津子との電話で、スーパーでの出来事を憤慨しながら話した。
「人の幸せを喜べない人なんて、別れて正解よね。本当に人を見る目がなかったわ。あんな奴と結婚してたなんて……仕事を辞めたいと思ったのがバカみたい。絶対、意地でも辞めないわ」
『あなた、辞めようと思ってたの? 悠人くんもいるのに、そんなに悩んでたのね。院長に直訴しましょう。私はあなたの味方よ』
「ありがとう、師長さん」
(絶対、悠人と一緒に幸せになってやるわ! 見返してやる)
お礼を言って電話を切った梨花は、悠人の寝顔を見つめて決意を新たにした。
眠れない夜
「先々週見せてもらった家、まだありますか?」
翌週末、また不動産会社を訪れた梨花と悠人は、担当の昇太が笑顔で『ありますよ』と言ったのを聞いて、ハイタッチして喜んだ。
「買いたいと思うんです。フラット35にするか、貯金を切り崩すかは迷ってるんですが」
「お子さんのために貯金はとっておいてください。弊社の金融事業部がフラット35を扱っていますので、事前審査をしましょう」
「お願いします」
事前審査に通ったと昇太から連絡があったのは、月曜日の夕方だった。
夕食の皿を片付けた梨花は、父が出たらどうしようと不安に思いながら実家に電話をした。
「お母さん、いよいよ私、家を買うわよ!」
梨花は幸子が出たとわかると、喜び勇んで報告した。
「フラット35で借りることにしたの。返し終えるのが72歳だけど、悠人が大きくなったら病棟に復帰して、繰り上げ返済するつもりよ」
『いい家があったのね、梨花。でも、無理して体を壊しちゃダメよ?』
「わかってるわ」
『本当にお金はいらないの? 看護師なんて大変な仕事、定年まで働けないでしょ? ね、お父さんと仲直りしたら?』
梨花もそのことを考えていた。だが定年まで看護師ができなくても、他の仕事があると思わなければやっていられなかった。
「許してくれるわけないじゃない」
『また、決めつけて…』
「謝りたくても、口もきいてくれないんじゃね」
孝人からの嫌がらせのこともあって、父の人を見る目は確かだったと思い直した梨花だが、きっかけがつかめなかった。
『お父さん、梨花が謝りたいって。話してあげて』
幸子が富雄を呼ぶ声に、梨花は慌てた。まだ心の準備ができていない。
『……梨花か?』
「お父さん、……ごめんなさい。意地張ってばかりで。家を買ったり子どもを育てたりするって、大変なのね……最近、やっと思い知ったわ」
『何かあったのか?』
「まぁ、色々あったのよ。孝人に嫌がらせされたり…お父さんの言うとおり、あいつはクズだったわ。仕事を辞めたくなったりもした。辞めないけどね……私、家を買うのよ。落ち着いたら、お母さんと一緒に遊びに来てね」
すぐに許してもらえると思っていなかった梨花は、電話を切ろうとした。それを遮ったのは富雄の言葉だった。
『梨花……一緒に住まないか?』
「……え?」
『お母さんの薬、俺じゃ飲ませ忘れてしまって……おまえと一緒だと助かるんだが』
薬とは、アルツハイマーの薬のことだろう。認知症の幸子を老いていく父だけに任せるのも不安だが、仲直りしたばかりで一緒に住めるとは思えない梨花だった。
その晩は色々考えてしまって、眠れない夜を過ごした。
集まる
不動産会社は火曜日と水曜日が休みだ。梨花は木曜日の午後に半休をとって、契約に行くつもりだった。それが、富雄から同居を提案されたことで揺らいでいた。
(この家で本当にいいのかしら? 将来一緒に住むかもしれないなら、一緒に見ておいたほうがいいんじゃ? 悠人が気に入った家だけど……)
梨花はもう一度、実家に電話をかけていた。
「もしもし、お父さん? 一緒に住む話、考えたんだけど」
『梨花、無理しなくていいんだぞ』
富雄のほうも、7年間口をきかなかった梨花との距離感を測りかねているようだった。
「私が悠人と選んだ家、一緒に見に行かない? 今すぐじゃなくても、将来一緒に住むかもしれないし」
『行く。お母さんを連れて行こう。いつがいい?』
「なるべく早く。できれば木曜日の午後に」
『その時間なら大丈夫だ』
梨花は駅で待ち合わせすることにして、電話を切った。
木曜日の午後、両親と一緒に不動産会社を訪れた梨花は、現地をもう一度見たいと昇太に頼み込んだ。仲が悪いと言った父を同伴した梨花に、昇太は「良かったですね」と喜んで案内してくれた。
LDKは18帖で、対面キッチンからはリビングが見渡せる。2階には8帖の主寝室、6.5帖の洋室、6帖のロフト付き洋室の3LDK。病院まで徒歩10分だが、バス便もある。
「いい家だな。ロフトなんか男の子の夢じゃないか」
「梨花、あんたこんな広い家に2人で住む気だったの?」
「お父さんとお母さんには、主寝室がピッタリじゃないかと思うのよ」
陽当たりの良い明るいリビングも寝室も、立地も気に入ったようで、梨花はホッとした。
「この家に決めます」
送迎車で支店に戻った梨花は、契約に進もうとした。そこで富雄が口を出した。
「確か、500万円か1,000万円までの援助なら、贈与税がかかりませんよね?」
「よくご存じですね。長期優良住宅なので、1,000万円まで贈与税がかかりません。予算に上限はありますが補助金も受けられますし、住宅ローン控除も一番手厚いんですよ」
「1,000万円援助すれば、残りは2,280万円だ。変動金利でいけるんじゃないか?」
富雄が自分から資金援助を申し出てくれたことに、梨花は感謝で胸が一杯になった。事前審査の申し込みをやり直し、翌日には審査を通過したと連絡があった。
梨花は土曜日の朝イチで契約を済ませた。契約には両親と悠人が立ち会った。孝人のことを毛嫌いしていた富雄だが、不動産会社で悠人と初めて顔を合わせて『じぃじ』と呼ばれると、人が違ったように満面の笑顔になった。
本審査も無事通過し、引渡しが済むと、悠人は早く引っ越したいと言い始めた。梨花は3年間住んだ看護師寮から引っ越すために荷造りを始めた。
門出
「いっしょにねようよ」
枕を持った悠人が、梨花の寝室に来る。梨花は読んでいた本を閉じて、ベッドの半分を悠人に明け渡した。
「ママ、せまいー」
「悠人が大きくなったのよ」
「そうかな? あしたからがっこう、たのしみだなぁ」
明日は小学校の入学式だ。分譲住宅『ソレイユ ルヴァォン』には、悠人の他に3人、新1年生がいる。中でも悠人は隣の家の颯太くんと仲良しで、同じクラスになったらいいねと話しているのを梨花は知っていた。
この家に引っ越してきてから、悠人の発作の回数は格段に減った。保育園で2度発作を起こしたが軽いもので、入院はしなかった。それだけでも家を買って良かったと思える。毎晩のように救急車のサイレンに起こされていた寮生活だったが、引っ越してからはぐっすり眠れるようにもなった。孝人と琴美はどうしているか奈津子に聞くと、院長が弁護士に相談して出入り禁止になったらしい。
今、梨花は両親と同居している。家を買うという人生の一大イベントは、家族をひとつにしてくれた。環境が変わって認知症が酷くなったりしないかと心配していた幸子も、近所の子ども食堂で料理をしたり子どもの面倒をみたりと、まあまあ元気に過ごしている。富雄は相変わらずパソコン教室で指導員をしているが、悠人と過ごせなかった時間を埋めるように帰宅が早くなった。
「じぃじとうえたはなが、さいたよ! ママ、みた?」
悠人が富雄と一緒に植えた球根が、小さな庭で咲いていた。赤、ピンク、黄色のチューリップ。気づかないわけがない。特にピンクのチューリップは、梨花が昔から好きな花だ。悠人はそれを富雄から聞いて、球根を植えようと言ったらしい。
「見たわよ。きれいだった」
「よかった! ねぇ、ぼく、そうたくんみたいにじてんしゃにのりたい!」
隣の颯太くんは、つい最近自転車を買ってもらったらしい。
「そうねぇ、もう悠人も小学生。次の休みに買いに行こうか」
「うん。ぼく、みどりいろがいいな……」
自転車の色まで指定して、悠人は布団にもぐり込んだ。
スヤスヤと寝息を立て始めた悠人を抱きしめて、梨花は自分も目を閉じた。腕の中の温もりは、湯たんぽのようにあったかい。今はすっぽりと腕におさまる悠人も、じきに成長して梨花の背を抜かすのだろう。できれば自分にも孝人にも似ずに、思いやりがあって素直に謝れる子に育ちますように。願いながら、梨花は夢の世界へと旅立った。
おわり
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。